環境
2. 小町緑地周辺
・小町緑地
小町・愛名の両緑地は、眺望のすぐれた高松山を中心にハイキングコースとして市民に親しまれており、市民の森として自然樹林を保存しながら散策路等が設けられました。
小町・愛名・上古沢緑地は、用地を公団が買収し、都市緑地としての施設整備を公団の費用負担により厚木市が行い、公園の設備にはトイレ、水飲み・手洗い場があり、遊び場には砂場、ブランコ、すべり台があります。
(厚木ニューシティ森の里「複合都市の先駆け」より抜粋)
・高松山
標高わずか147mの低い山ですが、大山を縮小したようなピラミッド型で相模平野の沖積低地から直接そびえているため以外に高く感じ、山頂からの眺望も雄大です。
高松山は、明治天皇行幸の地として「御幸山」とも呼ばれ、相模平野、森の里、七沢の山なみから大山まで見渡せる景勝の地として、また、桜の名所として古くから厚木市民に愛されてきています。
厚木市教育委員会は高松山で試掘調査した結果、山頂付近の地形を生かした前方後円型の遺跡を確認したと発表しました。古墳時代前期の豪族の墓の可能性があると言われています。
この付近は、律令時代の国分寺や国府が海老名に置かれていたことや、古東海道という官道が通っていたことなどからも古くから栄えていた土地で、有力な豪族がいたことが推定されています。
・明治天皇行幸碑
明治天皇の行幸は、明治14年(1881)4月中旬より5月末にわたり近衛兵の春季演習のご統監が目的でした。この演習は愛甲郡西部一帯が最後の決戦場と想定されていたので、ここに陛下をお迎えすることになったのです。
そのため行在所の設営場所として、旧妻田村の永野茂邸が最適とされました。
当時の厚木地方は、今日では想像もつかないほど交通不便で僻遠の感が深い地域であったといいます。
愛名の高松山は、「御幸山」と言って、尼寺原での近衛軍の演習を明治天皇が天覧された山でした。
当時は、尼寺原、長谷原、愛甲原、津古久丘陵などの洪積層台地を舞台にしばしば陸軍の大演習が行われ、高松山は軍況監察に最も適した所でした。
・小町神社
祭神は、「小野小町」で、元禄13年(1700) の小野村絵図を見ると「小町山」と「小町ノ宮」が描かれており、小町神社が320年以上の歴史をもつことが確認できます。
昔からこの小野の里が小野小町の出生地と云われています。
小町神社にまつわる話として、次のような話が伝えられ、この霊験に感じて勧請されたものといわれているます。
・鎌倉時代、源頼朝の側室、丹後の局は頼朝の子を身ごもったことから、政子に恨まれて処刑されそうになりました。
・それを命じられた畠山重忠(鎌倉初期の武将)の家人本田次郎が心をひるがえし、身代わりを立てると乳母兄弟がいる小野の里へと局の身を隠してしまったという事件が起こりました。
・一説では、地元の豪族愛甲三郎季隆が局をかくまって、この山里に住まわせたと言い伝えられています。その身ごもった子は後に島津忠久と名乗り薩摩の島津家の始祖となりました。
・丹後の局は政子の恨みのためか、精神的苦しみからか、今までの黒髪が一夜にして老婆のような白髪に変わってしまいました。
・非常に悲しんだ局は、小町神社の祭神の小町姫にお願いをして数日間祈願を続けたところ、不思議なことに、白髪がまた元のように黒髪に戻ったと云うことです。
それ以来、小町神社には、絵馬をあげいろいろな願いをこめて参詣する女の人が多くなったとのことです。
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