環境

6)森の里周辺の歴史

ここでは、森の里周辺の歴史を色々な角度から紹介していきます。隣の町に興味の持てる多くの歴史が色濃く残っております。

日本三大薬師のひとつ「日向薬師」

村上天皇(946-967)は、口径2尺1寸梵鐘を寄進し、後一条天皇(1016-1036)は勅額を下賜しました。

近衛天皇(1141-1155)は、院宣をもって口径2尺5寸の梵鐘に改鋳、光明天皇(1336-1348)は大和権守物部光連に命じて口径2尺6寸の梵鐘を鋳造し、それは現存しています。

後円融天皇(1371-1382)は、三河遠江両国の棟別銭を以て堂宇を修造するよう言葉を発するなど、天皇との関係が深かった寺です。   

建久3年(1192)に政子が安産祈願のため参詣、建久5年(1195)に源頼朝が姫君の病気平癒の祈願で参詣、その後、上総介義兼に命じて歯痛平癒の祈願に参拝させています。建曆元年(1211)に政子並びに実朝夫人が参詣している。このようなことから日向信仰は病気平癒の祈願に発すると云われています。 

(平成の大修理を終えた日向薬師本堂)  

(日向薬師如来像座像) 

七沢石

(□は、判読困難な文字の部分)

『高遠領内における石切の事は元禄時代には早くも現れており、藩への運上金を差し出している事は「高遠地方旧記」に見えている。藩では各郷の主立ちたるものは石切目付を命じて監督せしめ、運上金の不納の無きようにし、五人組下の石切に対しては五人組請け合いを差し出さしめ、旅稼ぎ中において御法度に触れることなく実体に勤める様請け合わせ、他国稼ぎ中持高の田畠を荒らさぬ様耕作の時節には村へ帰り仕付けをして…。』

             (高遠町の資料「昭和17年発行になった「藤沢村史」」より抜粋)

(奥半谷石切場で、赤線内は矢穴のあと)

信州高遠石工の名を刻む 七沢観音寺の「手水鉢」)

(信州高遠石工の名を刻む 徳運寺の「萬霊塔」)

七澤城址と実蒔原古戦場を訪ねて


   (『玉川を遡る』厚木市立玉川公民館より抜粋)

(七澤城址碑)

(実蒔原古戦場から七澤城址を望む、手前が実蒔原古戦場、中央の白い建物の所が七澤城址、中央の山が鐘が嶽(浅間山))

(七澤城址と実蒔原古戦場の位置関係)

津古久峠を通る大山道


玉川水害史と玉川河川改修



本稿の参考資料は「たまがわ河川水害史 小瀬村初男編」と「広報あつぎ 平成23年9月1日号」によります。

式内社「小野神社」

 


(小野神社  厚木市小野)

(小野神社祭礼で奉納された「相模里神楽) 

 小野小町伝説

 

 小野の中央にそそり立つ小山が「小町山」です。 山頂に小町神社が建てられていて、祭神は小野小町、いつの頃からか里の人たちは、この小野の里は平安歌人としてその名も高い小野小町の出生の地として語り伝えられていました。

 

 小野小町神社の由来


 


小町神社 厚木市

(小町七不思議の案内板  厚木市小野) 

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