環境
6)森の里周辺の歴史
ここでは、森の里周辺の歴史を色々な角度から紹介していきます。隣の町に興味の持てる多くの歴史が色濃く残っております。
日本三大薬師のひとつ「日向薬師」
日向薬師は、奈良時代の霊亀2年(716)に行基菩薩が開創したと伝えられており、霊山寺と呼ばれて、天皇や源頼朝、足利一族などの庇護を受けました。後に「宝城坊」と呼ばれるようになり、今では「日向薬師」と呼ばれて親しまれています。本尊は行基菩薩が42才のときに彫り安置された「薬師如来」です。
日向薬師の開創に関した伝説としては、持統天皇13年(699)に役行者(えんのぎょうじゃ)が愛川町の八菅山(はすげさん)に来山した折、薬師仏の秘法を修し、このとき、百体の薬師、百体の地蔵、百体の不動の像を彫って開眼供養、その徳を分かつため虚空に投げ、各仏空中より、薬師は日向に、地蔵は蓑毛に、不動は大山に落下して、おのおの日向薬師、蓑毛の延命地蔵、大山の不動尊になったと「行者本記」という本に記されています。
開創以来、歴代天皇の御帰依深く、 元正天皇(715-724)は、詔して堂宇を造営し勅願寺としました。
村上天皇(946-967)は、口径2尺1寸梵鐘を寄進し、後一条天皇(1016-1036)は勅額を下賜しました。
近衛天皇(1141-1155)は、院宣をもって口径2尺5寸の梵鐘に改鋳、光明天皇(1336-1348)は大和権守物部光連に命じて口径2尺6寸の梵鐘を鋳造し、それは現存しています。
後円融天皇(1371-1382)は、三河遠江両国の棟別銭を以て堂宇を修造するよう言葉を発するなど、天皇との関係が深かった寺です。
鎌倉期に入っては、将軍源頼朝自ら参詣し、北条政子に至っては数回参詣しています。
建久3年(1192)に政子が安産祈願のため参詣、建久5年(1195)に源頼朝が姫君の病気平癒の祈願で参詣、その後、上総介義兼に命じて歯痛平癒の祈願に参拝させています。建曆元年(1211)に政子並びに実朝夫人が参詣している。このようなことから日向信仰は病気平癒の祈願に発すると云われています。
貞治3年(1363)に、鎌倉管領足利基氏が錦幟献納し、小田原北条氏は60貫3百文の千を寄進しています。
江戸時代になって、徳川家より60石寄進の朱印が賜られ、その後、徳川氏の助力を得て、再建、大修繕が行われました。
国の重要文化財である本堂(薬師堂)は室町時代の建立で、これまで江戸時代の万治3年(1660)、延享2年(1745)に改修され、それ以来の大規模改修が平成22年(2010)から6年かけて行われ現在に至っています。
(平成の大修理を終えた日向薬師本堂)
(日向薬師如来像座像)
七沢石
七沢石は、厚木市七沢の鐘ケ嶽東方山麓から切り出される石の呼称です。 七沢石がいつごろから切り出されていたかは定かではありませんが、江戸時代初期~1963年(昭和38年)までの約300年間にわたり採掘されましたが、幕末の頃は下火になっていました。
明治期に高遠石工5人が七沢半谷の石切場に住み着きました。
七沢観音寺にある手水鉢には、正徳2年(1712)8月と刻まれているので、そのころには石工が来ていたことは確実です。記載されている石工は、忠兵□、長三郎、□助、与茂之□、□右□門、 源左□門、伊左□門、甚五□□の8名です。
(□は、判読困難な文字の部分)
また、徳雲寺(七沢)境内の「萬霊塔」には、 安永7年(1778)7月21日、 施主 伊藤新八 (高遠出身)の名が刻まれています。
では、なせ高遠出身の石工が七沢に来たのかというと、高遠藩は、渓谷の中に位置し、田畑の耕作地が極めて少なく、村人には、石工の技術を身につけさせ、五人組制度を取り入れて石工の出稼ぎを奨励したからです。
『高遠領内における石切の事は元禄時代には早くも現れており、藩への運上金を差し出している事は「高遠地方旧記」に見えている。藩では各郷の主立ちたるものは石切目付を命じて監督せしめ、運上金の不納の無きようにし、五人組下の石切に対しては五人組請け合いを差し出さしめ、旅稼ぎ中において御法度に触れることなく実体に勤める様請け合わせ、他国稼ぎ中持高の田畠を荒らさぬ様耕作の時節には村へ帰り仕付けをして…。』
(高遠町の資料「昭和17年発行になった「藤沢村史」」より抜粋)
七沢石は火山礫凝灰岩(海底火山から噴出した火山灰が堆積して石になったもの)にあたり、多数の塊状の火山礫を含んでいるのが特徴の一つで、凝灰角礫岩、緑色凝灰岩(グリーンタフ)であると言われ、石質は柔らかく、加工しやすいという利点がありますが、風化されやすく、永久的なものには適さないという欠点もあります。
(奥半谷石切場で、赤線内は矢穴のあと)
信州高遠石工の名を刻む 七沢観音寺の「手水鉢」)
(信州高遠石工の名を刻む 徳運寺の「萬霊塔」)
七澤城址と実蒔原古戦場を訪ねて
七澤城が何時の時代、誰によって築かれたものなのかは全く不明です。いつ、だれが、どんな目的で築城したか、など詳しいことは分かりませんが、自然を利用した山城の一つだった、と考えられています。
宝徳2年(1450年)4月、鎌倉公方足利成氏と関東管領山内上杉憲忠と確執が生じ、憲忠は七澤城へ立て籠もりました。(七澤城の文献への初登場です)この時上杉の臣長尾景仲と太田資清は鎌倉の成氏邸を攻撃、更に由比ヶ浜で成氏勢と戦ったが破れ景仲は糟屋館に立て籠もりました。景仲の敗戦を聞いた憲忠は七澤城の守りを固めましたが、同年10月室町幕府のとりなしで和睦が成立し、七澤城より山内の上杉館へ帰参しました。
その後、扇谷上杉定正がこの地方を領し、定正の兄刑部少輔朝昌が七澤城主となりました。
長享2年(1488年)太田道灌の死後、山内・扇谷の両上杉は相対して争うこととなり「長享年中の大乱」が起こりました。同年2月扇谷上杉定正・朝昌父子は 山内上杉顕定・憲房父子の軍勢と七澤城の南の実蒔原で合戦することとなりましたが、この実蒔原は、扇谷上杉家にとっては七澤城と 糟屋館の中間に位置する重要な地点であったため、七澤城主上杉朝昌と連絡をし5倍の兵力を持つ山内上杉顕定父子と対戦、地の利をわきまえる定正勢は空前の勝利を収めました。
この戦いの際、七澤城は定正本隊の詰め城となっていましたが、城主朝昌はその動きを見極めるために討って出てあえない最後を遂げてしまったと言われています。
実蒔原合戦の後、定正の次男七郎朝寧が七澤城主となり七澤七郎と称しました。その後、北条早雲が小田原に現れ、この地方を手中に収めると朝寧は武州松山(埼玉県)に移っていきました。(『新編相模国風土記稿』)
後北条氏の支配下におかれた七澤城は愛甲郡西部の拠点として番城となり、永禄年間(1558~70年)には渡辺五郎左衛門が守り、天正10年頃(1583年頃)は山口郷左衛門・同彌太郎等が守っていたものであろうと思われ ます。
天正18年(1590年)小田原の役により北条氏が滅んだ後、七澤城は廃城となりました。
(『玉川を遡る』厚木市立玉川公民館より抜粋)
(七澤城址碑)
(実蒔原古戦場から七澤城址を望む、手前が実蒔原古戦場、中央の白い建物の所が七澤城址、中央の山が鐘が嶽(浅間山))
(七澤城址と実蒔原古戦場の位置関係)
津古久峠を通る大山道
大山は雨降山・阿倍利山・阿武利山・阿夫利山ともいわれています。丹沢山地の南東部、厚木・伊勢原・秦野の境にある山で、標高1251.7メートルで前面が開けた平野になっているので、相模平野からよく目立ち、古くから農民や漁民の信仰を集めていました。
庶民の間にも大山に対する信仰は深まり、豊作祈願・無病息災・家内安全・防災招福・商売繁盛などの祈願に大山を訪れる者も増えました。なかでも水に関係の深い仕事である火消し・酒屋、また御神体の刀に関係する大工・石工・板前なども商売繁盛の祈願や相互扶助などの目的で大山信仰を利用し、講を組織して参拝を行っていました。
関東地方の四方八方の道は、すべて大山に通ずるといっていいほどであり、大山信仰は確かに神聖で純粋なものでした。講は元禄以前(今から約320年前)に結成されており、最盛期の宝暦年間(今から約260年前)には、年間20万人が参っていました。阿夫利神社の明治20年の調べでは、信徒およそ50万戸、一ヶ年5万人が登っていた、とのことです。
玉川水害史と玉川河川改修
最近、地球温暖化の影響とみられる異常気象による「集中豪雨」「線状降雨帯」などという言葉がマスコミで報道されています。
昔、玉川でも大きな被害を出した水害がありました。大山の東麓を源に、玉川地区から相川地区を流れ相模川につながるこの川は、かつて「暴れ川」と呼ばれ長い間人々を苦しめてきました。
今から80年前、昭和16年7月12日、西日本を襲った雨台風は死者87名、行方不明15名、流失家屋多数・・とラジオは伝え、関東各地にもその影響で大雨を降らせました。
午後8時半ごろ、ついに村の下流から堤防の決壊が始まり、濁流は容赦なく、沿岸の民家を襲い村は泥海と化しました。
玉川水害は、①関東大震災、②蛇行を繰り返す河の形状、の二つが主な原因といわれています。関東大震災は、マグニチュード7.9の大地震で、大山や丹沢99の至る所を崩壊、山肌を露出させました。くずれた土砂は玉川に堆積し、川底を上げてしまいました。いわゆる「天井川」となってしまったのです。それに蛇行という形状で、七沢から勢いよく流れてきた濁流は、小野に来て蛇行部分の数カ所の堤防を決壊させました。
この水害で、小野地区では死者8人、家屋の流失・倒壊30数棟、田畑は壊滅的な被害を受けました。
復興、復旧は、太平洋戦争中でもあり、機械もなく、人海戦術で行われました。まずは、愛甲附近から伊勢原市そして平塚市に入り金目川に注いでいた流路を、長谷地区付近からまっすぐに相模川に注ぐといったような大改修工事が進められました。
昭和21年4月に新玉川河川改修工事が終了しました。
本稿の参考資料は「たまがわ河川水害史 小瀬村初男編」と「広報あつぎ 平成23年9月1日号」によります。
式内社「小野神社」
小野神社の創建時期は不明であるが、今から1000年以上前(905~927年)に作られた『延喜式神名帳』において記された寒川神社や大山阿夫利神社と同じ「相模十三座」に数えられる格式の高い神社で、当時朝廷から重要視された神社です。
相模国十三座(式内社)の内 愛甲郡一座小野神社」と記されているように、古くから小野の地に鎮座する神社で、当地域は古くより「小野の里」と呼ばれ、『和名類聚抄』にも記載されている愛甲郡「玉川郷」の中心地であったといえます。
建久5年(1195)8月、愛甲郡の地頭であった愛甲三郎季隆が小野神社を再興したと伝えられています。小野神社は、愛甲氏の祖先神を祀る神社です。
この神社にまつられている神様は、「天下春命」と「日本武尊」です。
今の厚木市、愛川町、清川村あたりを愛甲郡とよばれていましたが、この小野神社は愛甲郡内の神社のとりまとめ役をする代表的な神社でした。
4月21日のお祭りの日には、夜店がならびお神楽や芝居が上演されます。
(小野神社 厚木市小野)
(小野神社祭礼で奉納された「相模里神楽)
小野小町伝説
小野の中央にそそり立つ小山が「小町山」です。 山頂に小町神社が建てられていて、祭神は小野小町、いつの頃からか里の人たちは、この小野の里は平安歌人としてその名も高い小野小町の出生の地として語り伝えられていました。
小野小町神社の由来
祭神は、「小野小町」で、この小野の里が小野小町の出生地と云われています。
小町神社にまつわる話として、次のような話が伝えられています。
鎌倉時代、源頼朝の側室、丹後の局は頼朝の子を身ごもったことから、政子に恨まれて処刑されそうになりました。
それを命じられた畠山重忠(鎌倉初期の武将)の家人本田次郎が心をひるがえし、局を連れて難波(大阪)へ逃げるという事件が起きました。
一説では、地元の豪族愛甲三郎季隆が局をかくまって、この山里に住まわせたと言い伝えられています。
丹後の局は政子の恨みのためか、精神的苦しみからか、今までの黒髪が一夜にして老婆のような白髪に変わってしまいました。
非常に悲しんだ局は、小町神社の祭神の小町姫にお願いをして数日間祈願を続けたところ、不思議なことに、白髪がまた元のように黒髪に戻ったと云うことです。
それ以来、小町神社には、絵馬をあげいろいろな願いをこめて参詣する女の人が多くなったとのことです
丹後の局がかくまわれていたのがバレて、西国に逃げていく途中、難波の国で男児を出産。その子が島津藩の初代藩主になったとのことです。
また、小野には「小町の七不思議」伝説が言い伝えられています。
小町神社 厚木市
(小町七不思議の案内板 厚木市小野)
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